2009年8月14日金曜日

旧花街にねぐらを得て

その部屋は、4畳半畳敷きの間でありながら、洋風のドアがついており、小さな中庭に開く小さな観音開きの窓がついた、一風変わった作りのものだった。戦後生まれ、若干二十歳の私にも、ここは昔の花街の一角にある、置屋か、旅館だったであろう建物ではないかと感じられた。玄関から入ると、正面に二階にあがる幅広い階段が、そう、幕末の勤王派と新撰組との争いを描いたドラマによく出てくるような、あの階段落ちがおきまりの階段のようなものがあり、それを上がってすぐ右が私に与えられたその部屋だった。月に一度しか休みがなく、また朝9時から夜中1時ごろまで働いていた私は、そこにただ寝に帰るだけだった。だからそこの大家さんなのか、管理人さんなのかわからないおばさんに会うことはほとんどなかった。
 北国の街、金沢に降り立った私はあるラーメン屋さんの表の店員募集ビラをみて、そこの店に声をかけたのだが、そこの店主が言うには、近々、店を畳もうと思っているので、人を傭うことは出来ない。表のビラはずいぶん前に出したもので、すっかり忘れていた。(そんなー!)でも、他の店を紹介してあげよう、といってどこかに電話してくれて、そちらのオーナーが、今夜はもう遅いので、とりあえず今日はこれこれの宿に泊まって、明日会おうということになった。そして、翌日、市内に2軒の店をもつ中華料理店で働くことに話が決まり、繁華街にあるビル、たくさんの飲み屋やバーやスナックが入っているビルの5Fのお店「眠眠」がその勤務先となった。
 夜中に仕事が終わると、近くの銭湯で汗を流し、朝までやってる定食屋「宇宙軒」で夜食をとり、上下とも白衣の仕事着にマフラーを巻いて、雪の降る北国の街をとぼとぼと行く。犀川大橋を渡りきると、右に折れて、雪のつもった細い道をだらだらと歩いて行くと、旧花街のエリアなので、角角に、厚化粧のお姉様方が二三人づつ、寒そうに立っていて、「お兄さん、お疲れさま、たまにはどう?遊んで行ったら?」などと、声をかけてくるのを黙ってやり過ごして、家路を急いだものです。もっとも、月日がたつと後半の「たまにはどう?遊んで行ったら?」の件はなくなり、ただの挨拶だけになったけど・・・

2009年8月1日土曜日

「過去」はどこから始めるか?

 過去は膨大にある。それだけ長く生きてきたのだ。どこまで後ずさりして始めよう?そう考えたとき、あるイメージが何度も浮かぶのだ。それは、「それから」の代助のように、市電の中に乗っていて、架線と電車のパンタとの間に激しく何度も火花が飛び交い、あたかもこれからの行く末が案ぜられる様な、逃避行の始まりの夜のワンシーンだ。蔵書の大半を古本屋に叩き売って得たお金と、田舎の母に嘘をついて送ってもらった、早めの仕送りのお金とを懐に、はるか北をめざして、下宿の近くの電停から飛び乗った市電。行く先は、だいぶ前から、金沢と決めていた。北の見知らぬ土地で、見知らぬ人々のなかに隠れて、加賀焼の陶工にでもなろうと思っていたのだ。市電にゆられ、薄暗い町並みを窓の外にながめながら、頭の中を、「遠くまで行くんだ、ぼくらの好きなひとびとよ」と"Allons,Allons! Jousque au bout!"が渦巻き、大学町を離れていった夜でした。ちょうど、二十歳になってひと月が経とうとしていたころでした。