2010年2月14日日曜日

臨配さんが行く!

わたしの仕事は「リンパイさん」と呼ばれるものだった。臨時配達を短縮して、「臨配」さんというわけだ。例えば、ある新聞販売店で欠員が出たとする。そうすると、リンパイさんが呼ばれて、その日の夕刊に一緒について配達順路を教わりながら回り、翌朝からはひとりで、その区域を配達するというわけだ。次の配達員が入ってくるまで、短いところで1〜2週間、長期になれば1〜2年になることもある。今でいう、派遣社員である。その頃はそんな言葉もなかったが。そして、わたしが最初に行くように言われたのは、埼玉県川口市の小さな新聞販売店だった。リンパイさんといわれても、わたしにとっては、新聞配達そのものが初めてであって、明くる日からひとりで配達するなんてとんでもない話で、第一、自転車に2〜300部の新聞をのせて、倒れずに行くことさえ、容易なことではなかった。だから、初めのうちは、何度も自転車ごと倒して、新聞を道ばたに放り出してしまったり、区域を全部回ったのに、何部かあまったりとさんざんだった。だから、その販売店の人たちには大変お世話になった。本来ならひとりで配達しなければいけないのに、1週間以上も一緒について回ってもらったのだ。さぞかし、迷惑だったろうが、わたしはわたしで必死だったのだ。
 朝の配達を終わると、正規の店員の人たちといっしょに朝ご飯をたべた。これが、ほんとうにおいしいのだ。朝早く起きて結構な運動をしているので、お腹もへっていていくらでも食べれた。朝夕の食事は給料とは別に、どこの販売店にいっても食べさせてもらえた。中には、近所の定食屋と提携しているところがあって、そこで食べさせてもらえるところもあった。
 朝食を終えると、夕刊がくる3時ころまで、少し寝たり、自由につかえる時間だった。
 夕刊を配りおえると、夕食までの時間、明朝のための折り込みチラシ入れという仕事がある。新聞販売店にとって、折り込みチラシというのは大きな収入源である。へたをすると新聞そのものの収入よりもむしろこの折り込み料の収入の方が大きいかもしれない。そのチラシを翌日の朝刊に挟むために、あらかじめ前の日に前もって送られてきているラジオテレビ紙面に
数枚のチラシを(日によって枚数はかわるが)挿み込んでおき、翌朝、朝刊がきた時にスムーズに配達の支度ができるようにお膳立てをしておくのである。その折り込みがおわると、店員の方々はもちろん、リンパイさんであるわたしにも、折り込み代と称して、手数料が現金で渡されるのである。これが嬉しかった。特に、週末ともなれば、スーパーやデパートなどのチラシが大量に入って、折り込み代もばかにならない位の金額になるのだった。中には飲み代ができたといって、それをもって町へ繰り出していくものも少なくなかった。
 配達にもなれて、結構リンパイさんらしくなったころ、団の方から、川崎の駅前の店に行くようにいわれた。せっかく、配達区域も憶えて、余裕もでてきたのに、また一から出直しかア!?西川口駅から、同じ京浜東北線で、一路、南へ、神奈川・川崎へと下っていく.....


2010年2月11日木曜日

1970、東京に立つ

 1970年の正月には、わたしは地下鉄お茶の水駅の出口に立っていた。金沢は前年の暮れに引き払って、内緒で正月の間は故郷で過ごし、松が開けてから東京に出てきていたのだ。どういう訳なのか、わたしの内なる声が、70年には東京にいろと叫んだのだ。1970年安保改定の年に東京で起こる一部始終を目撃しておけと、また内なる声がわたしに叫んだのだ。

 東京には、その3年前に入試のために来たことがあった。日大の芸術学部を受験するために来たのだが、受験のことは憶えておらず、ただ、神田神保町の古本屋街で、当時夢中になっていたアンドレ・ジイドの新潮社版全集全二十数巻を買い求め、苦労しながら、夜行列車で故郷まで持ち帰ったことだけ憶えている。そのとき、お茶の水でおりて神田古本屋街まで歩いていったことを憶えていたのだろう、この1970年にもまず、お茶の水に降り立ったのだ。

 その時のいでたちといったら、ぶかぶかの焦げ茶色のオーバーを着、頭にはやはり焦げ茶色のハンチングをかぶり、サングラスをかけた、異様な田舎者のたたずまいであったのだろう、出口から地上に出た途端に、因縁をつけられそうになったぐらいだ。

 それから、どこをどう歩いたのか、よく憶えていない。たしか、池袋の木賃宿(一泊100円か150円くらいの)に2、3日泊まったかもしれない。新宿の食堂街で朝食を食べて、結構高くつくなあと感じたのは憶えている。それから、いつまでもぶらぶらしてられないなと、新宿の電柱に貼ってあった求人ビラをみて電話すると、新大久保の事務所まで来てくれというので、言われた通りの道を辿っていくと、「あんた、お腹空いてない?カレーあるよ」と言われてカレーをごちそうになる。これが、Y新聞拡張団「S本団」の事務所だったのである。