2015年10月24日土曜日

2010年2月14日日曜日

臨配さんが行く!

わたしの仕事は「リンパイさん」と呼ばれるものだった。臨時配達を短縮して、「臨配」さんというわけだ。例えば、ある新聞販売店で欠員が出たとする。そうすると、リンパイさんが呼ばれて、その日の夕刊に一緒について配達順路を教わりながら回り、翌朝からはひとりで、その区域を配達するというわけだ。次の配達員が入ってくるまで、短いところで1〜2週間、長期になれば1〜2年になることもある。今でいう、派遣社員である。その頃はそんな言葉もなかったが。そして、わたしが最初に行くように言われたのは、埼玉県川口市の小さな新聞販売店だった。リンパイさんといわれても、わたしにとっては、新聞配達そのものが初めてであって、明くる日からひとりで配達するなんてとんでもない話で、第一、自転車に2〜300部の新聞をのせて、倒れずに行くことさえ、容易なことではなかった。だから、初めのうちは、何度も自転車ごと倒して、新聞を道ばたに放り出してしまったり、区域を全部回ったのに、何部かあまったりとさんざんだった。だから、その販売店の人たちには大変お世話になった。本来ならひとりで配達しなければいけないのに、1週間以上も一緒について回ってもらったのだ。さぞかし、迷惑だったろうが、わたしはわたしで必死だったのだ。
 朝の配達を終わると、正規の店員の人たちといっしょに朝ご飯をたべた。これが、ほんとうにおいしいのだ。朝早く起きて結構な運動をしているので、お腹もへっていていくらでも食べれた。朝夕の食事は給料とは別に、どこの販売店にいっても食べさせてもらえた。中には、近所の定食屋と提携しているところがあって、そこで食べさせてもらえるところもあった。
 朝食を終えると、夕刊がくる3時ころまで、少し寝たり、自由につかえる時間だった。
 夕刊を配りおえると、夕食までの時間、明朝のための折り込みチラシ入れという仕事がある。新聞販売店にとって、折り込みチラシというのは大きな収入源である。へたをすると新聞そのものの収入よりもむしろこの折り込み料の収入の方が大きいかもしれない。そのチラシを翌日の朝刊に挟むために、あらかじめ前の日に前もって送られてきているラジオテレビ紙面に
数枚のチラシを(日によって枚数はかわるが)挿み込んでおき、翌朝、朝刊がきた時にスムーズに配達の支度ができるようにお膳立てをしておくのである。その折り込みがおわると、店員の方々はもちろん、リンパイさんであるわたしにも、折り込み代と称して、手数料が現金で渡されるのである。これが嬉しかった。特に、週末ともなれば、スーパーやデパートなどのチラシが大量に入って、折り込み代もばかにならない位の金額になるのだった。中には飲み代ができたといって、それをもって町へ繰り出していくものも少なくなかった。
 配達にもなれて、結構リンパイさんらしくなったころ、団の方から、川崎の駅前の店に行くようにいわれた。せっかく、配達区域も憶えて、余裕もでてきたのに、また一から出直しかア!?西川口駅から、同じ京浜東北線で、一路、南へ、神奈川・川崎へと下っていく.....


2010年2月11日木曜日

1970、東京に立つ

 1970年の正月には、わたしは地下鉄お茶の水駅の出口に立っていた。金沢は前年の暮れに引き払って、内緒で正月の間は故郷で過ごし、松が開けてから東京に出てきていたのだ。どういう訳なのか、わたしの内なる声が、70年には東京にいろと叫んだのだ。1970年安保改定の年に東京で起こる一部始終を目撃しておけと、また内なる声がわたしに叫んだのだ。

 東京には、その3年前に入試のために来たことがあった。日大の芸術学部を受験するために来たのだが、受験のことは憶えておらず、ただ、神田神保町の古本屋街で、当時夢中になっていたアンドレ・ジイドの新潮社版全集全二十数巻を買い求め、苦労しながら、夜行列車で故郷まで持ち帰ったことだけ憶えている。そのとき、お茶の水でおりて神田古本屋街まで歩いていったことを憶えていたのだろう、この1970年にもまず、お茶の水に降り立ったのだ。

 その時のいでたちといったら、ぶかぶかの焦げ茶色のオーバーを着、頭にはやはり焦げ茶色のハンチングをかぶり、サングラスをかけた、異様な田舎者のたたずまいであったのだろう、出口から地上に出た途端に、因縁をつけられそうになったぐらいだ。

 それから、どこをどう歩いたのか、よく憶えていない。たしか、池袋の木賃宿(一泊100円か150円くらいの)に2、3日泊まったかもしれない。新宿の食堂街で朝食を食べて、結構高くつくなあと感じたのは憶えている。それから、いつまでもぶらぶらしてられないなと、新宿の電柱に貼ってあった求人ビラをみて電話すると、新大久保の事務所まで来てくれというので、言われた通りの道を辿っていくと、「あんた、お腹空いてない?カレーあるよ」と言われてカレーをごちそうになる。これが、Y新聞拡張団「S本団」の事務所だったのである。


2009年11月14日土曜日

京都のボナールを観る

 月に一度の休みを利用して、金沢から京都まで行ったことが、確か2回くらいあったように憶えている。京都は高校一年生の夏休みにひとりで訪れて以来だが、何度来ても素晴らしい街だ。市電に乗り継いで、あちこちの古刹を訪ね歩いたり、いろいろな古い町並みを眺めたりしたものだが、あるとき、偶然開かれていた京都国立近代美術館でのボナール展に飛び込みで入った。それまでボナールなんて画家は知らなかった。そのつづりからフランスの画家であろうことは推察できたけれど、それ止まりだ。でも、入ってみてよかった。ルノアールなどの印象派風なんだけど、それより洗練されているというか、ソフィストケイティッドされているような、そのときの私にぴたっとフィットするような画風だった。今でも、その中の少女を描いたスケッチ風の絵を憶えている。たしか、帰りには、そこで絵はがきを求めたような気がする。

そして、実際には投函しなかったけれど、ふるさとに住むある人あてにたよりをそれに書き、末尾に「現在、ぼくはどんな希望も持っていません。だから前へ前へというふうに進む以外ないんだと思っています。」という隆明からの引用をしたような気がする。

2009年11月5日木曜日

腫れた目とアポロ11号

 チーフの市田さんの奥さんという人は、とても若く、二十歳そこそこの、可愛い人だった。チーフが、当時、おそらく33~35歳ぐらいだったろうから、一回り以上、歳が離れていることになる。わが「眠眠」のオーナーは、別に、キャバレーも経営しており、(その他に、スーパーも1軒)彼女はそこのホステスであった。どういういきさつで二人が知り合ったのかはわからないが、キャバレーの終わったあとに、同僚のホステス2、3人と連れだって、「眠眠」に立ち寄ることがあった。最初は彼女がチーフの奥さんだとは知らずに、ただ二人が仲いいなあぐらいに思ってたんだが、ある時、そう、犀川に鮎が上り始めて鮎漁が解禁になったころ、彼女が片目のすみを大きく腫らして、まるでお岩さんのような姿で店に現れたことがあった。私はびっくりして、でもその訳を聞くのも気が引けて、見ていると、彼女がキャバレーのお客さんから時計をプレゼントされて、そのことに激怒したチーフが、激しく彼女を殴打したものらしい。そして、その時、初めて二人が夫婦だと知り、二重に驚いたのを憶えている。そして、それから何日も経たないうちに、アポロ11号は月へと旅立ち、アームストロング船長は月面に人類にとって偉大な一歩を印したのだが、そのころには、彼女の目のまわりの腫れもすっかりひいて、二人は閉店後の「眠眠」のカウンター越しに仲のいいところを、私に見せつけるのだった。


2009年11月3日火曜日

月に一度の店休日

 月に一度の店休日には、遅くまで朝寝をしてから、おもむろに街へ繰り出し、途中の宇宙軒で遅い朝食兼昼食をとるか、おいしそうな和菓子がたくさん店先に並ぶ、香林坊の老舗和菓子屋でだんごかなんかを買って、その頃はまだ、無料で入れた兼六園の中を散策しながら食べたりして、ゆっくりと通り抜け、図書館へ行くのが、楽しみだった。図書館では、おさらばしたはずの、吉本隆明やアンドレ・ジイドなどのなじみの本や新刊を夕方になるまで、静かに読んだものだ。受験生や学生が大勢静かに勉強していたのを憶えている。そして、夕方になると、図書館を後にして、今度は浅野川のほとりまで、歩いていき、河端にある、北国劇場の近くの餃子専門店で夕食をとるのが、休日の最後のきまりだった。金沢には、北国(ほっこく)とつく名の建物や店がたくさんあって、初めて目にしたときには、不思議な気がした。金沢ってそんなに北にあるところだっけ?もっと北にはたくさんの街や市や県や道があるじゃない!?北国銀行、北国新聞、北国会館、北国食堂などなど・・
 さて、その餃子専門店では、かなり厚ぼったい感じの手作りの皮でつつんだ餃子がとてもおいしく、一度食べると病み付きになるほどだった。その中でも、焼き餃子と汁餃子と白ご飯を頼むのが私のお気に入りで、それを美味しく食べ終わると、月にたった一度の休
みもまた終わるのだった。


2009年9月21日月曜日

賄い昼飯!

 忙しいランチタイムが終わって、2時ころからが、わたしたち従業員の昼食となった。入ってしばらくは、習ったばかりのラーメンを練習がてら自分で作って、それが昼食のメニューとなった。大きく平らな中華鍋にお湯を張り、沸騰させてから、その中に麺をほぐして振り入れる。軽くまぜておき、その間に、スープの方の準備をする。ラーメン丼に、小さな柄杓いっぱいのタレを入れ、胡椒を一振り、麺が茹で上がりそうなタイミングを見計らってから、寸胴鍋でブクブクと湧いている透明なスープを丼の適当なところまで注ぎ入れておく。さて、麺の方に注意して、その中の一本を指でつまみ、芯の有り具合から、茹で加減を判断し、良しとなったら、右手に上げ笊、場合によっては左に箸をもって、素早く麺を上げ、湯切りを手早くし、丼の中におさめる。麺がひとつや二つのときは、簡単なんだけど、10個ぐらい鍋に入っているときは、大変!すこし固めのかなり芯が残っている段階から、麺を上げはじめる。そうしないと、最後の10個目をあげるころには、麺がのびてしまうからだ。
 さて、麺が丼に収まったら、つぎはトッピングだ、焼豚、シナチク、ネギ、鳴門をのせて、さあ出来上がり!とはいえ、修行の身、練習中なので、わたしの昼飯になるときは、トッピングはネギをのせるだけ。ただ、わたしは、そこに大量のラー油を注いで食べるのが大好きだった。その辛みとごま油の香りがなによりのトッピングであった。わたしは、この店で働くまでラー油というものを知らなかった。餃子は好きでよく食べていたはずなのだが、いつも酢一醤油だけで食べていたのだろう。ラー油を加えた記憶がない。この店のラー油は定期的に店長が作っていた。ごま油に白絞油をくわえたものを、中華鍋のなかでグツグツと煮る。やがて、温度が上がっていったところに、大量の粉末の唐辛子を投入し、さらに時間をかけて煮詰めていく。そうして作ったものを冷ましてから、篩で漉すと、綺麗な朱色の少しどろりとしたラー油が出来上がる。
 ラーメンを卒業すると、次は、チャーハンや焼きそばなどの鍋を使う料理を教えてもらい、その失敗作が、わたしの毎日の昼食となっていった。そのあとには、八宝菜や肉団子へ移っていき
それらの失敗作もやがてわたしの毎日の昼食となっていった。
 さすがに、毎日毎日中華料理の出来損ないばかりでは可哀想だと思ったのだろう、ときには目玉焼きを桂ちゃんがつくてくれることがあったし、そのとき、目玉焼きの作り方も教わって、それ以後は自分でも時々作って昼食にした。
 あるとき、店長が大根を短冊切りにして、ボールの中に入れ、生醤油をそこにたっぷり注いで一日たつと、おいしい大根の醤油漬けが出来上がり、私たちの昼食に出してもらった。残りの大根をさらに棒状に刻んで、潰したにんにくと一緒にさっと炒めてから、醤油とラー油を注いで、大根炒めの出来上がりで、これもわたしたちのささやかな賄い昼食の食卓に上った。いただきまーす!