2009年11月14日土曜日

京都のボナールを観る

 月に一度の休みを利用して、金沢から京都まで行ったことが、確か2回くらいあったように憶えている。京都は高校一年生の夏休みにひとりで訪れて以来だが、何度来ても素晴らしい街だ。市電に乗り継いで、あちこちの古刹を訪ね歩いたり、いろいろな古い町並みを眺めたりしたものだが、あるとき、偶然開かれていた京都国立近代美術館でのボナール展に飛び込みで入った。それまでボナールなんて画家は知らなかった。そのつづりからフランスの画家であろうことは推察できたけれど、それ止まりだ。でも、入ってみてよかった。ルノアールなどの印象派風なんだけど、それより洗練されているというか、ソフィストケイティッドされているような、そのときの私にぴたっとフィットするような画風だった。今でも、その中の少女を描いたスケッチ風の絵を憶えている。たしか、帰りには、そこで絵はがきを求めたような気がする。

そして、実際には投函しなかったけれど、ふるさとに住むある人あてにたよりをそれに書き、末尾に「現在、ぼくはどんな希望も持っていません。だから前へ前へというふうに進む以外ないんだと思っています。」という隆明からの引用をしたような気がする。

2009年11月5日木曜日

腫れた目とアポロ11号

 チーフの市田さんの奥さんという人は、とても若く、二十歳そこそこの、可愛い人だった。チーフが、当時、おそらく33~35歳ぐらいだったろうから、一回り以上、歳が離れていることになる。わが「眠眠」のオーナーは、別に、キャバレーも経営しており、(その他に、スーパーも1軒)彼女はそこのホステスであった。どういういきさつで二人が知り合ったのかはわからないが、キャバレーの終わったあとに、同僚のホステス2、3人と連れだって、「眠眠」に立ち寄ることがあった。最初は彼女がチーフの奥さんだとは知らずに、ただ二人が仲いいなあぐらいに思ってたんだが、ある時、そう、犀川に鮎が上り始めて鮎漁が解禁になったころ、彼女が片目のすみを大きく腫らして、まるでお岩さんのような姿で店に現れたことがあった。私はびっくりして、でもその訳を聞くのも気が引けて、見ていると、彼女がキャバレーのお客さんから時計をプレゼントされて、そのことに激怒したチーフが、激しく彼女を殴打したものらしい。そして、その時、初めて二人が夫婦だと知り、二重に驚いたのを憶えている。そして、それから何日も経たないうちに、アポロ11号は月へと旅立ち、アームストロング船長は月面に人類にとって偉大な一歩を印したのだが、そのころには、彼女の目のまわりの腫れもすっかりひいて、二人は閉店後の「眠眠」のカウンター越しに仲のいいところを、私に見せつけるのだった。


2009年11月3日火曜日

月に一度の店休日

 月に一度の店休日には、遅くまで朝寝をしてから、おもむろに街へ繰り出し、途中の宇宙軒で遅い朝食兼昼食をとるか、おいしそうな和菓子がたくさん店先に並ぶ、香林坊の老舗和菓子屋でだんごかなんかを買って、その頃はまだ、無料で入れた兼六園の中を散策しながら食べたりして、ゆっくりと通り抜け、図書館へ行くのが、楽しみだった。図書館では、おさらばしたはずの、吉本隆明やアンドレ・ジイドなどのなじみの本や新刊を夕方になるまで、静かに読んだものだ。受験生や学生が大勢静かに勉強していたのを憶えている。そして、夕方になると、図書館を後にして、今度は浅野川のほとりまで、歩いていき、河端にある、北国劇場の近くの餃子専門店で夕食をとるのが、休日の最後のきまりだった。金沢には、北国(ほっこく)とつく名の建物や店がたくさんあって、初めて目にしたときには、不思議な気がした。金沢ってそんなに北にあるところだっけ?もっと北にはたくさんの街や市や県や道があるじゃない!?北国銀行、北国新聞、北国会館、北国食堂などなど・・
 さて、その餃子専門店では、かなり厚ぼったい感じの手作りの皮でつつんだ餃子がとてもおいしく、一度食べると病み付きになるほどだった。その中でも、焼き餃子と汁餃子と白ご飯を頼むのが私のお気に入りで、それを美味しく食べ終わると、月にたった一度の休
みもまた終わるのだった。


2009年9月21日月曜日

賄い昼飯!

 忙しいランチタイムが終わって、2時ころからが、わたしたち従業員の昼食となった。入ってしばらくは、習ったばかりのラーメンを練習がてら自分で作って、それが昼食のメニューとなった。大きく平らな中華鍋にお湯を張り、沸騰させてから、その中に麺をほぐして振り入れる。軽くまぜておき、その間に、スープの方の準備をする。ラーメン丼に、小さな柄杓いっぱいのタレを入れ、胡椒を一振り、麺が茹で上がりそうなタイミングを見計らってから、寸胴鍋でブクブクと湧いている透明なスープを丼の適当なところまで注ぎ入れておく。さて、麺の方に注意して、その中の一本を指でつまみ、芯の有り具合から、茹で加減を判断し、良しとなったら、右手に上げ笊、場合によっては左に箸をもって、素早く麺を上げ、湯切りを手早くし、丼の中におさめる。麺がひとつや二つのときは、簡単なんだけど、10個ぐらい鍋に入っているときは、大変!すこし固めのかなり芯が残っている段階から、麺を上げはじめる。そうしないと、最後の10個目をあげるころには、麺がのびてしまうからだ。
 さて、麺が丼に収まったら、つぎはトッピングだ、焼豚、シナチク、ネギ、鳴門をのせて、さあ出来上がり!とはいえ、修行の身、練習中なので、わたしの昼飯になるときは、トッピングはネギをのせるだけ。ただ、わたしは、そこに大量のラー油を注いで食べるのが大好きだった。その辛みとごま油の香りがなによりのトッピングであった。わたしは、この店で働くまでラー油というものを知らなかった。餃子は好きでよく食べていたはずなのだが、いつも酢一醤油だけで食べていたのだろう。ラー油を加えた記憶がない。この店のラー油は定期的に店長が作っていた。ごま油に白絞油をくわえたものを、中華鍋のなかでグツグツと煮る。やがて、温度が上がっていったところに、大量の粉末の唐辛子を投入し、さらに時間をかけて煮詰めていく。そうして作ったものを冷ましてから、篩で漉すと、綺麗な朱色の少しどろりとしたラー油が出来上がる。
 ラーメンを卒業すると、次は、チャーハンや焼きそばなどの鍋を使う料理を教えてもらい、その失敗作が、わたしの毎日の昼食となっていった。そのあとには、八宝菜や肉団子へ移っていき
それらの失敗作もやがてわたしの毎日の昼食となっていった。
 さすがに、毎日毎日中華料理の出来損ないばかりでは可哀想だと思ったのだろう、ときには目玉焼きを桂ちゃんがつくてくれることがあったし、そのとき、目玉焼きの作り方も教わって、それ以後は自分でも時々作って昼食にした。
 あるとき、店長が大根を短冊切りにして、ボールの中に入れ、生醤油をそこにたっぷり注いで一日たつと、おいしい大根の醤油漬けが出来上がり、私たちの昼食に出してもらった。残りの大根をさらに棒状に刻んで、潰したにんにくと一緒にさっと炒めてから、醤油とラー油を注いで、大根炒めの出来上がりで、これもわたしたちのささやかな賄い昼食の食卓に上った。いただきまーす!

2009年9月12日土曜日

毎日の日課

店は正午から開店なのだが、開店前の下準備のため、10時には店に入っていた。まず、することは、料理に使う野菜などの下ごしらえだ。ランチなどに添えるためのキャベツの千切りをボール一杯になるほどに作って水に浸しておく。様々な料理に使うための、タマネギやピーマン、白菜などは短冊に切ってかごにいれておく。そのかこはガス台の周囲に並べておく。人参は、短冊や、糸切りにしたあと、茹でてから水にさらした後、水のはいった缶に浸けておく。缶詰の水煮タケノコも短冊に切ってからさっと湯にくぐらせてから水に浸しておく。ラーメンのスープをつくるために、まず豚骨を沸騰したお湯で軽くゆがいてから、流水できれいに汚れを洗い流す。きれいになった豚骨をお湯をわかした大きなずん胴鍋の中に静かに投入してゆく。さらにその上に、鶏ガラを3〜4羽分ほど、そのまま静かに入れてゆく。あとは、スープとなる湯が沸騰しないように、ぶくぶくと下から時折あぶくが沸き上がってくるくらいの温度に保つように注意していく。下ごしらえの時に出た、野菜のくずや、野菜の外革などは、そのスープの中に放り込んでおく。卵の殻もスープ表面の灰汁取りのためにやはり投げ込んでおいた。餃子の餡をつくるために、大量のキャベツを芯まですべて切り刻んではミキサーの中に水と一緒にいれて十分に撹拌し、布袋の中にそれを開けてから、体重をかけて水を絞り出す。そうしてからからになったキャベツのみじん切りはボールの中に開けておく。こうした下ごしらえをしている傍らでは、先輩の桂ちゃんがお店を穿いては、雑巾がけをしたり、さまざまな食器を整えたり、調味料の過不足を調整したり、割り箸を足したり、いろいろな雑用をしていた。桂ちゃんはわたしよりは4〜5歳ぐらい年上で、ボーイッシュなとても短い髪型をして、口数のすくない、色白な女性だった。わたしたちがこうして開店前準備を進めていると、やがて11時すぎぐらいに、チーフと呼ばれていた市田店長が出勤して来た。チーフは、京都の私立大学に在学中、中華料理店でバイトしていたらしいのだが、終いには、本末転倒、バイトの方が本業になり、大学は中退して、その中華料理店に就職してしまったらしい。そして、めきめき腕を上げ、チェーン店の一つを任されるほどになったところを、当地の社長に注目され、引き抜かれて、この金沢で、この『眠眠』の店長になることになったらしい。
 チーフは出勤してくると、わたしが準備していたキャベツのミジン切りを使って、さらにさまざまな材料や調味料を使って餃子の餡をつくり、その餡を既製品の皮で、わたしと二人で、開店までに100個ぐらい包むのだった。餃子の餡はだいたい二日分ほどあったので、次の日にはわたしひとりで100個ほど包んだ。
 こうしてすべての準備がすんでからいよいよ開店、内側に入れていたのれんを店の外に出すと、12時かっきりに、さあ、いらっしゃい!

2009年8月14日金曜日

旧花街にねぐらを得て

その部屋は、4畳半畳敷きの間でありながら、洋風のドアがついており、小さな中庭に開く小さな観音開きの窓がついた、一風変わった作りのものだった。戦後生まれ、若干二十歳の私にも、ここは昔の花街の一角にある、置屋か、旅館だったであろう建物ではないかと感じられた。玄関から入ると、正面に二階にあがる幅広い階段が、そう、幕末の勤王派と新撰組との争いを描いたドラマによく出てくるような、あの階段落ちがおきまりの階段のようなものがあり、それを上がってすぐ右が私に与えられたその部屋だった。月に一度しか休みがなく、また朝9時から夜中1時ごろまで働いていた私は、そこにただ寝に帰るだけだった。だからそこの大家さんなのか、管理人さんなのかわからないおばさんに会うことはほとんどなかった。
 北国の街、金沢に降り立った私はあるラーメン屋さんの表の店員募集ビラをみて、そこの店に声をかけたのだが、そこの店主が言うには、近々、店を畳もうと思っているので、人を傭うことは出来ない。表のビラはずいぶん前に出したもので、すっかり忘れていた。(そんなー!)でも、他の店を紹介してあげよう、といってどこかに電話してくれて、そちらのオーナーが、今夜はもう遅いので、とりあえず今日はこれこれの宿に泊まって、明日会おうということになった。そして、翌日、市内に2軒の店をもつ中華料理店で働くことに話が決まり、繁華街にあるビル、たくさんの飲み屋やバーやスナックが入っているビルの5Fのお店「眠眠」がその勤務先となった。
 夜中に仕事が終わると、近くの銭湯で汗を流し、朝までやってる定食屋「宇宙軒」で夜食をとり、上下とも白衣の仕事着にマフラーを巻いて、雪の降る北国の街をとぼとぼと行く。犀川大橋を渡りきると、右に折れて、雪のつもった細い道をだらだらと歩いて行くと、旧花街のエリアなので、角角に、厚化粧のお姉様方が二三人づつ、寒そうに立っていて、「お兄さん、お疲れさま、たまにはどう?遊んで行ったら?」などと、声をかけてくるのを黙ってやり過ごして、家路を急いだものです。もっとも、月日がたつと後半の「たまにはどう?遊んで行ったら?」の件はなくなり、ただの挨拶だけになったけど・・・

2009年8月1日土曜日

「過去」はどこから始めるか?

 過去は膨大にある。それだけ長く生きてきたのだ。どこまで後ずさりして始めよう?そう考えたとき、あるイメージが何度も浮かぶのだ。それは、「それから」の代助のように、市電の中に乗っていて、架線と電車のパンタとの間に激しく何度も火花が飛び交い、あたかもこれからの行く末が案ぜられる様な、逃避行の始まりの夜のワンシーンだ。蔵書の大半を古本屋に叩き売って得たお金と、田舎の母に嘘をついて送ってもらった、早めの仕送りのお金とを懐に、はるか北をめざして、下宿の近くの電停から飛び乗った市電。行く先は、だいぶ前から、金沢と決めていた。北の見知らぬ土地で、見知らぬ人々のなかに隠れて、加賀焼の陶工にでもなろうと思っていたのだ。市電にゆられ、薄暗い町並みを窓の外にながめながら、頭の中を、「遠くまで行くんだ、ぼくらの好きなひとびとよ」と"Allons,Allons! Jousque au bout!"が渦巻き、大学町を離れていった夜でした。ちょうど、二十歳になってひと月が経とうとしていたころでした。